私の場合、気づきや想いの記事を連ねていき
そして、最後にタイトルをつける事が多いです
きょうは、タイトルとその内容について考えてみました
去年の秋、絵画展での出来事
私達のグループ展の向かいの会場では
写真展が行われていました
私が当番で、受付に座っていた時のことです
その写真展に出品されている、ある初老のご婦人が
私達の絵を観てくださった後に、こう言われたのです
「皆さんの絵の題のあとに、ここの場所は何処で
どのあたりから見た景色とか、その時の気持ちとか感想とか
書かれていたら、もっと楽しめますのにね…」
確かに、其のことは理解出来、一理あるのですが
私は、その時には、こう答えました
「絵の場合は、ある場所の景色を描いていても
邪魔なものは消してしまったり、欲しい物は付け足したりで
もうそれは何処の場所か、限定できないんです。
その方の感じてくださったままでいいと思うんです」
そのあとにも、その方は重ねて
「でも、私なんかは、書いてあったほうが、楽しめますわ」
と、おっしゃいました
ご意見は、有り難くいただきましたが
やっぱり、私の画題のつけ方は変わっていません
例えば、チューリップを描いても
「花」
チョット説明しても
「赤い花」
「山」
「庭」
「一隅」
「風景」
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まったく、愛想がありません
最近は季節も加えません
チューリップを描いていても
見る相手は、チューリップと解釈しないかも知れないし
( 多分、チューリップとは分かるでしょうが
それよりも、可愛さ、暖かさの印象の方が、強いかも知れません )
私は、見る人の想像力を限定したくないのです
これは、私の考えであって、人それぞれ違うと思いますし
表現の手段によっても、違うと思います
写真も、音楽も、絵も、小説も・・・
タイトルも含めて「一つの作品」ですね
あっ、そのためにはもっと、おしゃべりな絵を描かないと・・・

初心者のころは、何か絵のタイトルでも、
難しいものをつけたり、思い込みの激しいものをつけたり、
見る側の人を悩ませてしまったりします。
画題のことを大層に言うわりに、絵に何もうったえるものが無かったり・・・
おしゃべりな、おしゃべりな絵が描けたらいいなあ、と思います。
しかし、千姫さんの考えを読んでいるうちに、なるほどその通りだと納得できました。自分が意図した作品の狙いは決してどこの場所で何時にそれを撮ったかの説明にあるのではなくて、自分が心に感じたものを見る人にうまく伝えたいという表現の仕方にあるのだと思いました。それはタイトルが無題であっても「花」だけであっても構わないわけですよね。その作品を見て作者の意図をわかってもらえるような作品ができれば最高ですよね。
ワタクシめは思うんですけど、一つの「絵」に対して作者なんかが「説明文」を書いているのはどーかなぁ、と。例えばどこかの何気ない風景を描いていた絵に「どこどこの絵」と説明されていると、オーディエンスのほとんどは「あの辺の景色かぁ」と思いますよね?でもそれって“絵を見てもらいたい”という側からすれば返って余計な先入観を見る人に与えてしまうんじゃないかなぁ、と。むしろ“無題”で出してみてその時に描いた側がどういった心境でそのタッチをしたのか、ってのを見てもらう方が一種の“自己表現”として成り立つのかもとは感じますね。
まぁ結局そこは各々の価値観には委ねられますが、その辺が“描く事”ひいては“表現する事”の奥深さによって「自己との駆け引き」という言葉を成立させているのかもしれませんね。